ニュー・マイ・ノーマルな武装と創と造

こんにちはこんばんは

ほとけです。

 

お久しぶりのブログ。

本当であればUtopiaの感想を文字に起こして残しておきたい気持ちがあるのですが、当時の記憶を思い出せずにいるところで

DVDの発売を待ち侘びているそんな、ゼンジン1週間前。

 

ゼンジンに向けて感性を高めるために普段聴かないような曲たちと向き合っている今日この頃。

少し自分の中でとある曲に違和感を抱き始めている。

 

ニュー・マイ・ノーマル

 

Utopiaでこの曲を全身で浴びた時、立っていられるのが精一杯と思えるくらいネガティヴな感情に支配されていた記憶が鮮明に蘇る。

 

これはもちろん前段のMCで大森元貴が心情を赤裸々に告白した事実も相まっているが。。。

 

それから夏フェスやAmazonライブ、TikTokライブを通じて、必ず

”ニュー・マイ・ノーマル”がセットリストに入っているが、Utopiaで抱いた感情が再度湧いてくることは一度もない。

 

なぜか?

 

自分なりにこの気持ちを整理して納得した結論がある。

 

時は少し戻って2018年のENSEMBLE幕張

「こういう格好をしないと歌えない」というニュアンスの言葉をこぼしたフロントマンがいた。

 

彼ら、いや彼にとって曲を書く、音楽を作るという行為に膨大なエネルギーを費やすということ、そうしてできた曲を人に披露するために”武装”しないと、エネルギーに潰されてしまうのであると思うし、実際にこれまでのプロセスを振り返ると納得ができる話だと思う。

 

武装することで創と造が成立する。

 

Utopiaでの”ニュー・マイ・ノーマル”は武装していない状態の真っ直ぐな気持ちが私たちに一直線に届いていた。

この曲って彼が彼自身に暗示をかけているような、彼の気持ちに寄り添った曲であるのでは・・・?と思った瞬間には涙が止まらなかった。

 

武装しないと負の感情に飲み込まれてしまうよねって。

 

それから夏フェスなどでこの曲を聴いてもUtopiaで抱いた感情は湧き上がることなく、彼らはビジュアルで武装してマインドバランスを保っているんだな。と感じると同時に

武装と創と造ってこういうこと?と思い始めている

 

武装することに対して言葉がどうしても薄くなってしまうが、こういう解釈であれば自分がUtopiaで抱いた感情と、これまでの彼らのパフォーマンスや表現に対する理解がつく。

 

ニュー・マイ・ノーマル最高!というようなファンの方とは多少分かり合えない空間の歪みを感じている。

 

しっかりとこれからも自分の目と耳、自分の気持ちで彼らの音楽を一心に受けたいと思うのであった。(めでたしめでたし)

 

ゼンジンでしっかりと彼らの音楽を受け止めたい。

 

それでは、合掌!

 

2022.11.2 ほとけ